別れ
久々のブログです。
3ヶ月以上アップできてなかった気がします。
先月、父が遠いところへ旅立ちました。
もう二度と戻ってくることはありません…
もう二度と話すこともできません…
もう二度と見ることも触れることも…
突然の出来事でした。
4月の末、乗鞍の雪山登りから帰ったら高熱を出していました。炎症反応も強く加療が必要となり入院となりました。その後経過は良く、5月の連休明けには退院の目処が立っていました。
連休前日まで元気に会話をしていた父でした…
74歳でしたがしっかりした父でした…
ベルギーへ渡欧中はEメールで連絡を取り合い、留守宅を守っていた父でした…
父のPCが古くなり、K&EのUSキーボードのPCを使うようになり
「面倒くさいけど覚え直すか・・・」
と言ってた父でした…
連休初日9時半頃。
Eは、そろそろ起きようかな…?って思ってたところ、Kが携帯で「10分くらいで行けます…」って話しながら寝室に入ってきました。
Eは どうしたの? って思いながら、でも今急を要することって………
E「父に何かあったの?」
K「急変したらしい…」
E「?????」
「…父は死んでしまうんだろうか? …でも、昨日まで喋ってたし、経過も良好って主治医も言ってたし……どういうこと???」
訳も分からず駆けつけました。
蘇生中でした…
朝6時の巡視時、8時過ぎの点滴時、会話していたそうです。
しかし、詰め所の心電図モニターが延びていくので病室へ駆けつけたところ、チアノーゼ+, 心肺停止状態だったと……
しばらくして、心臓が動き始めたと…
当直医が出てきて「自発呼吸はなく意識不明です…」
病室へ入り、、、
「お・と・う・さ・んー」、、無反応…
父に触れてみる、、温もりは感じられず…
周りを見回すと、、レスピレーターが繋がれ、昇圧剤が繋がれ、sedationの薬剤が繋がれ、ライフスコープが鳴っていて、、、
「・・・・・・・・・・」
主治医は知人だったのでGW初日にも拘わらず駆けつけてくれた。
直ぐに色々な検査をしてくれた。
結果は、脳にも心臓にも異常はなし。入院中の原疾患が悪化したわけでもなかった。
急に起こったこと、その後の経過から考えると肺塞栓を起こしたのではないかと…
2〜3日後の脳の画像から、父が目覚める可能性は低いことが分かる。
恐らく、心肺停止していた時間が長かったのであろうと…
医学的に不可能なことは分かっていても、奇跡に望みを托しGWを過ごす…
それから2ヶ月、毎日、毎日、家族全員が父を見舞い、付き添った…
顔を奇麗に拭いて髭を剃って、手足を拭いてマッサージして…
父の兄弟姉妹、義兄弟姉妹、姪達、甥達、入れ替わり立ち替わり見舞ってくれて、話しかけてくれて、触れてくれた…
その病院の知り合いの先生方もよく父を訪室して下さった…
みんな、みんな、いつか目覚めてくれるのではないかと思い、想い出話をしたり、父を励ましてくれた…
意識不明の父なのに、そんな雰囲気をどこかで感じているのか、みんなの声に、温もりに反応し、体を動かしたり、心拍数を増やしたりして応えてくれた…
最悪の病態の中、2ヶ月もの間父が頑張ってくれたのは、みなさんの思いに応えてくれてたんだろうなぁ・・・って思います。
Eが、父は、急変した5月3日に、そのままで居られた方がどれだけ楽だっただろう・・・
ってKに話したことがあります。
父は、色々なことを考え、考え抜いて行動するタイプの人でした。
Kは、
そんな父だから自分は苦しくって辛いかもしれないけれど頑張って戻って来てくれたんだろうと…
どうして急に心肺停止を起こしてしまったか? 謎のまま終わらせるのは納得いかなかったのであろう…
『父が遠いところへ逝ってしまう』それを受け入れるためにEやEの母には時間が必要だと考えたんだろう…
と。
最期に父が与えてくれた時間は父の愛が一杯つまった時間でした…
7月4日10時半過ぎ 生前の父と変わらぬ優しい寝顔で旅立ちました。
今までいっぱい、いっぱいありがとう。
もう心配は要りません、楽にゆっくり眠ってくださいね………
3ヶ月以上アップできてなかった気がします。
先月、父が遠いところへ旅立ちました。
もう二度と戻ってくることはありません…
もう二度と話すこともできません…
もう二度と見ることも触れることも…
突然の出来事でした。
4月の末、乗鞍の雪山登りから帰ったら高熱を出していました。炎症反応も強く加療が必要となり入院となりました。その後経過は良く、5月の連休明けには退院の目処が立っていました。
連休前日まで元気に会話をしていた父でした…
74歳でしたがしっかりした父でした…
ベルギーへ渡欧中はEメールで連絡を取り合い、留守宅を守っていた父でした…
父のPCが古くなり、K&EのUSキーボードのPCを使うようになり
「面倒くさいけど覚え直すか・・・」
と言ってた父でした…
連休初日9時半頃。
Eは、そろそろ起きようかな…?って思ってたところ、Kが携帯で「10分くらいで行けます…」って話しながら寝室に入ってきました。
Eは どうしたの? って思いながら、でも今急を要することって………
E「父に何かあったの?」
K「急変したらしい…」
E「?????」
「…父は死んでしまうんだろうか? …でも、昨日まで喋ってたし、経過も良好って主治医も言ってたし……どういうこと???」
訳も分からず駆けつけました。
蘇生中でした…
朝6時の巡視時、8時過ぎの点滴時、会話していたそうです。
しかし、詰め所の心電図モニターが延びていくので病室へ駆けつけたところ、チアノーゼ+, 心肺停止状態だったと……
しばらくして、心臓が動き始めたと…
当直医が出てきて「自発呼吸はなく意識不明です…」
病室へ入り、、、
「お・と・う・さ・んー」、、無反応…
父に触れてみる、、温もりは感じられず…
周りを見回すと、、レスピレーターが繋がれ、昇圧剤が繋がれ、sedationの薬剤が繋がれ、ライフスコープが鳴っていて、、、
「・・・・・・・・・・」
主治医は知人だったのでGW初日にも拘わらず駆けつけてくれた。
直ぐに色々な検査をしてくれた。
結果は、脳にも心臓にも異常はなし。入院中の原疾患が悪化したわけでもなかった。
急に起こったこと、その後の経過から考えると肺塞栓を起こしたのではないかと…
2〜3日後の脳の画像から、父が目覚める可能性は低いことが分かる。
恐らく、心肺停止していた時間が長かったのであろうと…
医学的に不可能なことは分かっていても、奇跡に望みを托しGWを過ごす…
それから2ヶ月、毎日、毎日、家族全員が父を見舞い、付き添った…
顔を奇麗に拭いて髭を剃って、手足を拭いてマッサージして…
父の兄弟姉妹、義兄弟姉妹、姪達、甥達、入れ替わり立ち替わり見舞ってくれて、話しかけてくれて、触れてくれた…
その病院の知り合いの先生方もよく父を訪室して下さった…
みんな、みんな、いつか目覚めてくれるのではないかと思い、想い出話をしたり、父を励ましてくれた…
意識不明の父なのに、そんな雰囲気をどこかで感じているのか、みんなの声に、温もりに反応し、体を動かしたり、心拍数を増やしたりして応えてくれた…
最悪の病態の中、2ヶ月もの間父が頑張ってくれたのは、みなさんの思いに応えてくれてたんだろうなぁ・・・って思います。
Eが、父は、急変した5月3日に、そのままで居られた方がどれだけ楽だっただろう・・・
ってKに話したことがあります。
父は、色々なことを考え、考え抜いて行動するタイプの人でした。
Kは、
そんな父だから自分は苦しくって辛いかもしれないけれど頑張って戻って来てくれたんだろうと…
どうして急に心肺停止を起こしてしまったか? 謎のまま終わらせるのは納得いかなかったのであろう…
『父が遠いところへ逝ってしまう』それを受け入れるためにEやEの母には時間が必要だと考えたんだろう…
と。
最期に父が与えてくれた時間は父の愛が一杯つまった時間でした…
7月4日10時半過ぎ 生前の父と変わらぬ優しい寝顔で旅立ちました。
今までいっぱい、いっぱいありがとう。
もう心配は要りません、楽にゆっくり眠ってくださいね………
コメント
もう直ぐ父親の命日だなぁ、あの時はバタバタだったけど、もう遠い昔の事になったなぁ、と思っていたのは昨晩。
今朝、久々にお邪魔してご尊父御逝去の書き込みを拝見し、24年前の事を思い出しました。
私の父は心肺停止に陥った際、担当の先生が必死に蘇生してくれました。病室に呼ばれましたが
「自発呼吸ではありません。自発呼吸になる可能性は残念ながらありません。脳死状態とお考え下さい」
結局旅立ったのは翌日でしたが、丸一日殆どの親戚を交えて病室で過ごし父を見守りました。
脳死の数日前、未だ会話が出来た時、兄のところに子供が出来た、私の就職が内定した、という朗報を伝えることが出来たよな。
こうやって心の準備も出来たよな。
そうだ、アイバンクに連絡しなきゃね。
などと話をしていました。
だからkeiさんがeriさんにおっしゃた事はよく分かります。
eriさんにもお父様にお会いしたことがない私が言うのは変ですが、悲しみは時間とお父様との思い出が癒してくれますよ。
お父様のご冥福を心からお祈り申し上げます
早速のお心のこもったお悔やみのお言葉、心より感謝いたします。
温かさ、優しさが身体の奥底まで染み渡り
・・・・・・・・・・・
未だ、居なくなってしまったという現実を認識しつつも、居なくなってしまったという実感は湧かない、心と脳が乖離したような状態です。
この距離を縮めてくれるのは時間のようですね…
ご供養に勤めながら、ゆっくり進んでいこうと思います。